ずっとヴィーガン暮らし

薬草学の母ヒルデガルトに憧れて植物療法を学んでいます

1月7日に強迫観念的に食べる七草粥とは

七草粥 

いつからか1月7日に七草粥を食べるために、数日前からそわそわするようになった。

 

なぜか元旦より7日に向けてテンションが上がる。思えば12月31日から元旦にかけては連続しているから、カウントダウンしながら挨拶だけ「あけましておめでとう!」と言ったところで、だらだら感を引きずってしまうのだ。

 

お節料理だって、年越しそばだけじゃ物足りないとか、冷蔵庫に入りきらないとか何かと理由をつけて、31日に紅白を見ながらちょっぴりつまんでしまったり(やっぱりそんな節操のない人いませんかね(^^;))

 

お節料理=作り置き


みたいなもんだから、実際特に料理をしなくてもいい。お節+お雑煮が、だんだんお節+パンになったりして、、、。新年早々そんな節操のない自分をプチ断食禅モードの七草粥で一気に断ち切る作戦だ。

 

"節操のない自分" 

   ↓ 七草粥のプチ断食禅モード

"年中行事を大切にするきちんとした自分"

 

七草セット

3日には早くもスーパーに七草セットなるものが並び始める。
早すぎはしないか?しなびてしまうだろうと気になりつつもまだ買わない。


しかし、6日には確実に手に入れておかなければならないのだ。6日に急遽非常事態が生じ、スーパーに行けなくなったらどうするのだ。深夜のコンビニに果たして七草セットなるものが売っているのだろうか。もし七草粥を食べそびれたら、プチ断食禅モードにならないまま "節操のない自分" を引きずって、今年1年が台無しになってしまうのではないか、年の初めから大きな不安に襲われる。

 

そんなしくじりをしないために私は5日に確実に七草セットを手に入れる。ところが行かなければいいのに6日にまたスーパーに行って、彩りよく赤かぶなどが入っている七草セットを見かけ、ああああああなんとぉ、とため息をつきながら己のいとも簡単に揺らいでしまう情けない心と直面するのである。こっちがいい。赤かぶ入り。やっぱりこっちも買っておこうか。

 

そしてある日、ますます私を追い詰める文章に出くわしたのだ。

 

「昔から1月7日の朝に七草粥を食べると1年が無病息災で過ごせると信じられてきました。」


えええええ!ですかあ、、、、。

 

何も知らず今までのんびりと夜に食べていましたぁ。そうだったんですね。無知とはおそろしいものだ。七草粥とは朝に食べるものだった。今まで夜に食べて、ハイっプチ断食。1年の無病息災を保証された気分でいたというのに。朝にというのはハードルが高い。お粥はすぐには炊けないんですよ。

 

春の七草

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春の七草・・・名前は?

 

せり、なずな、ごぎょう、はこべら、ほとけのざ、すゞな、すゞしろ
芹、薺、御形、繫縷、仏の座、菘、清白


漢字を見たらちょっと読めない😢でもその馴染みのなさにこそ、七草粥の習慣が続いてきた長い年月が感じられる。元々は中国から伝えられた風習で、平安時代には宮中の儀式とされていたとか。

 

1年に一度くらいはいにしえに思いを馳せてみましょう。

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七草を入れて蒸らしたところ

レシピ本などには「青菜を別鍋でさっと湯がいてから刻んで入れる」とあるけれど、灰汁もすべて自然の恵みだと思って、そのまま入れてしまいます。(本当は湯がくのが面倒くさいだけ😢)青菜の苦みが正月気分で緩んだ胃も心も引き締めてくれるでしょう。

 

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強迫観念が解放される瞬間に感謝!

無事に七草粥をいただき、気分もそれなりに禅モードになることができました

日本の伝統行事や年中行事を大切にする、二十四節気を意識して自然とともに生きる。そんな人になれたらと思いつつ、、。

 

なぜお節料理より、七草粥に心惹かれ、いつの間にかこだわりの自分行事に昇格したのかな。
炊きあがった粥の白さに青菜の苦み、ひとつまみの塩、立ち上がる湯気。元日から1週間は許された、少々浮かれた気分と重い体を一気に浄化してくれる潔さ。

 

欲張るな。今十分に満たされているではないか。いにしえの彼方からそんな声が聞こえてきそうだ。