いきなり淋しいタイトルをつけてしまいました(笑)「一人」は一人、二人と単なる数を表現しますが(ひらがなで書くとちょっとニュアンス違うけど)「ぼっち」をつけると急に淋しい感じがしますね。
前から、体の中で脳だけが異質だなと感じていたんです。
医学的なことは全くわかりませんが、脳は体の一部分であるはずなのに、それだけではないような、不思議な存在。自分の意思と関係なく変な夢とか見るからかな。
体は常に「いま・ここ」にいるのに、脳だけはそうじゃない感じがして。
日常的な動きをしている時は体に意識が向かないので、脳は(体の動きも脳からの命令なら、思考はと言うべきかも)昨日のことでくよくよしたり、明日のことを心配したり、やれやれ、片時も「いま・ここ」に留まっていない。
だからふらふらと出たり入ったりする思考を今この瞬間に引き戻したいなら、体に意識を向けることだ。
一番わかりやすいのは、体のどこかが痛い時。とにかく今痛くてどうしようもないわけだから「生きているとはまさに今この瞬間のことなんだ」と否応なく感じることができるし、思考も逃げ場がない。
そうやって体は常に今を生きているのに、思考する脳は体の一部でありながら、どこへでも飛んで行きそうで、なんか違うなぁ。
そんなことを漠然と考えていたときに出合ったのが、脳科学者である池谷裕二さんの「脳はひとりぼっち」という言葉です。
脳はひとりぼっちですよね。固い頭蓋骨に覆われて、外の世界とつながっていないのだから、脳が環境にアプローチする唯一の手段は体です。五官や手足の動きなど、体を通じてしか今の状況を知るすべがない。
すべての情報は体から入って脳に伝わるので、例えば姿勢を正せば自信の度合いが増すなど、行動を起こせば、それに見合った心理状態を脳が生み出すという内容。
だから体が基本。いえ、それ以上のものだと思います。
「脳はひとりぼっち」という池谷先生の専門的なお話とは全然関係ないけど、「私もひとりぼっち」とこじつけのように書いたのは、そろそろ覚悟を決めて生きないといけないなと思ったからです。
誰かに過度に期待したり、メンタル依存したりせず、
誰かの尺度に影響されたり、誰かの評価を気にしたりせず、
誰かをうらやましがったり、誰かと比べて安心したりせず、
かなり恥ずかしい表現だけど、自分のドラマの脚本は自分で書くしかない。そういう決まりだから。決まりを知りながら、ずっと知らないふりをして中途半端に楽をしてきたような気がします。
さらに、日常という自分のドラマを生きながら、同時に全体と繋がるにはどうしたらいいのか。
ひとりぼっちの脳が体を通して環境とつながっているのなら、ひとりぼっちの自分も何かを通して全体とつながっていたい。
キーワードは、やっぱり体なんだと思う。体に意識を向ければ、生かされていることがよくわかる。普段はすっかり忘れているけど、心臓は自分の意思では動かせないから。
「体は神様の住む神殿」らしい。
思考があちこち飛び回って落ち着かない時は、静かに目を閉じて心臓の鼓動に耳を澄ませよう。自分はひとつのピースにすぎないけど、同時に間違いなく全体でもある。絶対的な安心感に包まれる至福の時。
ミクロコスモス、マクロコスモス(聖ヒルデガルト)
ひとりぼっちで覚悟して生きようと思ったけど、まあひとりぼっちでは決してないということでしょうか。よかった~。