ずっとヴィーガン暮らし

菜食と薬草のおうち歳時記

冬ごもりでクラフトフルネス

今週のお題「冬の楽しみ」

 

冬になると急にやりたくなってウズウズすること。私の場合、それは編み物だ。とにかく冬の間は毛糸に触れていたい。そこいら中を毛糸や道具で散らかしながら、ちょっと編んでは、あっ間違えちゃったかなとほどいてみたり。私の編み物はのらりくらり、冬の間に出来上がるのかどうかもわからない。ただ手を動かしている時間がほっこりして楽しいのだ。

 

昔から「編み狂う人」に憧れていた。電車の中で、喫茶店で、公園で、人の視線なんかなんのその、ただ黙々と編んでいる人がいる。そこにはその人だけの世界が存在していて、手と編み棒と毛糸が見事にリズムを刻んでいる。カッコいいなぁ。神々しいぐらいの魂の編み物。この前は電車を待ちながらホームで「立ち編み」している人を見かけた。

 

ちなみに「編み狂う」という言葉は、韓国文学の翻訳家、斎藤真理子氏の「編み狂う」というタイトルの連載コラムで初めて出合った。彼女の編み狂いぶりと編み物に関する考察が鋭い。編み物にはどうやら「狂う」ほどにのめり込む引力があるようだ。

「あと一段」と思っているだけなのに、十時間ほどがまるごと消えることさえあるのだから、ちょっと魔法じみている。

編み狂う – 水牛のように

 

残念ながら、私は編み狂えない人だ。なぜなら黙々と編めるほどのスキルがない。編み物の本に載っている図面とにらめっこしながら、または「編み物キット」を買ってひたすらその通りに編むだけだ。要するに楽譜がないとピアノが弾けないタイプ。楽譜を見ながら、図面を見ながらでは、なかなか魂が入らない。

 

それでも例年通り、この冬も編み物三昧である。DARUMAのキットでベストをなんとか編み終わり、模様編みのネックウォーマーに挑戦中。

応用力ゼロ、オリジナリティゼロの私でも、編んでいる時間はそれはそれは楽しくて多幸感に包まれる。かなり編み進めてから、編み図を正しく理解してないことがわかり、潔くガーっと全部ほどくこともよくある。あーやっちゃったな。今まで費やした時間が全て無駄になったのに、それでも損した気分には不思議とならない。なぜだろう。

 

その答えが、「クラフトフルネス 心を休める習慣」という本を読んでちょっとわかったような気がした。著者は陶芸家でアーティストのSHOWKO氏だ。

クラフトフルネスとはマインドフルネスから派生した言葉で、アメリカやヨーロッパでトレンドとして今ブームになっているそうだ。クラフトとフルネスを合わせた造語で「クラフト+フルネス=手を動かし、心を満たす習慣」ということらしい。

 

クラフトというと、何か作品を作らなければいけないように感じるかもしれないけど、必ずしもそうではなく、ただ鉛筆を削ったり、玉ねぎをじっくり炒めたり、取れたボタンを付けたり、靴を磨いたり、アイロンをかけたり、そんな日常の中で手を動かすことに意識を向けて、丁寧な時間を味わってみようということだ。

 

手を動かしながら目の前のことに集中すると、過去や未来に飛びがちな意識が「いま・ここ」に戻り、心がじんわりと満たされていく。人と比べたり、出来上がりの評価を気にしたり、効率を重視したり、そんな世界とは無縁の、自分の手とモノだけの濃い時間が立ち上がってくる。

注意のベクトルが未来(完成や評価)から、いま(指先と素材)に切り替わるのです。

手を動かしているうちに、いつの間にか雑音や雑念が遠のいて、普段とは全く違う時間が流れていることに気づく。クラフトフルネスは過程に価値を見出す行為、「手を動かしている自分」を受け入れることだ。

 

ただそこに "いる" ことの価値に戻ること

 

なるほど。確かに私の編み物も、完成した時に多少の達成感はあるものの、むしろ編んでいる過程そのものが楽しい。編んだり、ほどいたり、ただ手を動かして毛糸と戯れている時間そのものが、特別なほっこり時間なのだ。斎藤真理子氏の言葉を借りれば「一瞬が永遠に間延びしたような幸福感」ということになる。

 

そう言えば、年末に庭の植物でこんな飾りを作った。この時は寒さも忘れて、庭でずっと手を動かしていたなぁ。言われてみれば、これもクラフトフルネスの時間だったのかもしれない。

こんなに楽しい楽しいと言っている編み物も、春の訪れを感じるが早いか、一気にやる気が失せるから自分でも笑ってしまう。やけにきっぱりと「はい、編み物の時間はおしまい」となる。夏ものを編むという発想は全くない。だから編み物は私にとって冬だけのお楽しみなのだ。

 

 

retoriro.hateblo.jp

 

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