ずっとヴィーガン暮らし

薬草学の母ヒルデガルトに憧れて植物療法を学んでいます

木蓮のように

庭の木蓮を植木屋さんに剪定してもらいました。この20年の間に大きく育ち、すっかり我が家のシンボルツリーになった白木蓮。春には可憐な花と甘い香りで楽しませてくれます。でも葉っぱがふさふさなので、風が吹けば落ち葉がご近所さんの方まで飛んで行き、毎年この時期は気を遣います。

 

そして丸裸になったうちの木蓮。

 

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こんなに切るの?なんだか無残な姿になって可哀想に見えるのですが、検索してみると「木蓮は成長が早いので、こんなに切っちゃうの?というぐらいガッツリ切って大丈夫」とのこと。

 

夫が庭仕事が大好きで、休みの日は昼ご飯も忘れて一日中庭で何やらやっています。平日も出勤前のわずかな時間に必ず庭に出て、なかなか出かけません。

 

「遅れるよ~」と声をかけると

 

「・・癒しのひとときを邪魔された・・」と。

 

夫にとっては庭いじりが心を整える「瞑想の時間」なのかもしれません。

 

だから、庭木の剪定もずっと自分でやっていました。いつの間にかいろいろな道具が増えていて、長い脚立もばっちり。でも切るのが可哀想だと思うのか、あんまり切らないんですよね。

 

夫も趣味なので植木に関しては素人ですが、私は全くの素人。そんな私が見ても「剪定ってもう少し切るものなんじゃない?」と思うぐらい。でも夫の領域なので口は出しません。

 

それでも木蓮はもう自分では無理だと思ったのか、植木屋さんに頼んだのです。丸裸になった木蓮を見てショックを受けていました。

 

「切り過ぎだよ~、絶対切り過ぎ!」と。

 

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植物って本当に不思議です。これだけ丸裸になっても、春が来れば若葉が出て、蕾を膨らませ、やがて見事に花を咲かせるのですから。

 

冬の間は一体何をしているのでしょうか。たぶん、、、

 

備えている

 

そういうことなのかなと勝手に思っています。

 

考えてみると、植物だけではなく動物だって同じですよね。みんな冬の過ごし方をちゃんと知っている。季節の巡りと自分の生の営みが調和している。

 

人間だけが、寒いだの、動かないから太るだの、文句が多い(私だけ?)

 

それでは何に備えているのかな。

 

次に動き出す時に備えている。今はまだその時じゃないと知っているから、どっしり構えて揺らがずに、今やるべきことをやる。

 

今は根を張る時。土台を作る時。

 

必ず季節は巡って来ると信じているから、絶対的な安心感の中で自分の花を咲かせる準備を黙々としていられるのでしょう。

 

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今年の冬をどう過ごそうか、考えています。もっと自然の理に適った過ごし方があるはず。春には春の、冬には冬の。

 

まずは丸裸になった木蓮のように、自分もいろいろ余計なもの(ぜい肉?)をそぎ落としたい。ため込んだものや執着を手放したい。

 

そして丸裸になっても揺らがない木蓮のように、自分の土台をしっかりと作りたい。土台って、まあ精神面かな。何が起こっても、学びの場だと考えて受け止められるような強さ。

 

いやいや、やっぱり体も土台が大切。心と身体はいつも一体だから。冬ヨガに励もう。

 

先日写真を載せた「心のごちそう帖 お寺ごはん」の冬支度の項に素敵な言葉がありましたよ。

動き出そうとする前に

「どうすればいいか」ではなくて

「どうあればいいか」を考え、

備える時間を持ってみる 

心のごちそう帖 お寺ごはん

 

冬という季節は「外へ、上へと目を向けずに、どうあればいいかをじっくり考えなさい」と天が用意してくれた内省の時間なのかもしれませんね。ああ~、だからこんなに寒いのか。