ずっとヴィーガン暮らし

薬草学の母ヒルデガルトに憧れて植物療法を学んでいます

ビニール傘の想い出、この世界は一瞬一瞬が美しい

今週のお題「傘」

 

ビニール傘。

 

便利で安い。お手軽なプラスチック製品の代表のようなもの。買いたくはないけれど出先で雨に降られ、慌ててコンビニに駆け込んでしかたなく買ってしまう。誰しもそんな経験はあるだろう。

 

いつの間にか玄関の傘立てに増えているビニール傘。そう思っていると、またいつの間にかなくなっている。家族の誰かが持ってきて、家族の誰かが持って行く。

 

大切にしないから、なくなっていても気にならない。

 

でも母はこのビニール傘をいちばん嫌っていた。家族の誰かが家に持ち込むと

 

「家に傘が何本もあるのに、どうしてこういうものをわざわざ買ってくるの」

「朝天気予報を見て、折り畳み傘を持って行けば済むことなのに」

「お母さんはこういうのが大っ嫌いなの!」

 

たかが500円のビニール傘で、なんでここまで機嫌が悪くなるのか、天気予報が当たらないことだってあるし、と私は小言をいう母親をうるさく感じていた。

 

でも、今ならわかる。ビニール傘そのものが嫌というより、「あとですぐに捨ててしまうような、どうせ大切にできないような物をその場しのぎで買う」という行為を安易にすることが嫌なのだ。

 

ビニール傘はそんないいかげんな生活をしていることの、いわば象徴のようなもの。空を見上げて天候を気にしながら、愛着のある折り畳み傘を鞄に入れる。もしかしたら使わないかもしれないし、荷物にもなってしまうけど、あえて不便を選択する。ビニール傘はそんな潔さの対極にある存在なのだ。

 

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 そんなマイナスイメージのビニール傘だけど、一度だけこのビニール傘がすごく素敵に思えた出来事があった。

 

もうずいぶん前の話になるが、私は職場の友人から花見に誘われた。お互い仕事のストレスがたまっていたので、気分転換にきれいな桜でも見に行こうよと。

 

約束の日曜日はあいにく小雨が降っていた。

「どうする、やめる?」

「まあ、満開の桜の下をぶらぶら歩くだけでもいいじゃない。止むかもしれないし」

と、予定通り行くことにした。

 

待ち合わせ場所に着くと、彼女が遠くから歩いて来るのが見えた。透明なビニール傘をさしていた。

 

都会的で颯爽としていて、いつもオシャレな彼女がビニール傘をさしている姿にちょっと違和感があった。そして私はちょっとだけほっとした。彼女のビニール傘がちょっとダサく見えたのだ。もしかしたら彼女に対してコンプレックスのようなものを日頃感じていたのかもしれない。

 

「ビニール傘なんて使うんだね」と私。

 

「まあね、こういう時はやっぱこれじゃないとね」と彼女。

 

なんのことかわからなかったが、私たちは小雨の中を歩き始めた。少し風も吹いていた。桜の花びらがひとひら、またひとひらと落ちてきた。

 

とりとめもなくおしゃべりをしながら、桜並木を歩いた。ふと彼女をみると彼女のビニール傘の上には桜の花びらがたくさんのっていた。

 

私ははっとした。きれいだった。彼女のビニール傘はいつの間にかうすいピンク色の花びらの傘になっていた。

 

「わぁ、きれいだねぇ」と言うと

「内側から見るともっときれいだよ」と言って、彼女は傘を高く持ち上げ私を中に入れてくれた。

 

不思議なことにちょうどそのタイミングで、雲の間から日が差してきた。ビニール傘の内側から空を見上げると、桜の花びらと雨のしずくが光に反射して、きらきらと光っていた。

 

一瞬、時が止まった。静寂の中、なにかものすごく美しい世界を見たような気がした。" 調和 " この世界は完全に調和している。そして自分もその調和の中に存在している。

 

その後どうしたか、雨が止んだのかどうだったのかはよく覚えていない。ただ駅で彼女と別れ、ふと手元を見た時のことは覚えている。

 

私の閉じた傘に桜の花びらが張り付いていた。バラ柄の傘のバラの花模様の上に重なっていた。ああ、ダサいな私、、、ものすごく落ち込んだことを覚えている。

 

この世界は一瞬一瞬が美しい。ただそれに気づかないだけだ。

 

桜の花びらと雨のしずくと太陽の光。それをビニール傘が結びつけて一瞬のミラクルを見せてくれた。そんなことが起こることを期待してか、彼女はビニール傘をわざわざ持ってきたのだ。その場しのぎの、使い捨ての道具としてではなく。

 

ビニール傘を買わないような生活をしたいと思う。でもビニール傘が悪いわけでは決してない。